北海道における中国人殉難者と慰霊祭の経過

 太平洋戦争開始後約1年たった1942年11月27日、時の東条内閣は日本国内の重労働に従事する労働力の不足を補うために、中国人を強制連行することをきめました。この方針によって、中国の河北、河南、山東、山西など十数省から一般住民および軍事俘虜が日本に連行され、苛酷な強制労働に従事させられました。
 その数は、少なくとも、41,762名と考えられ、このうち乗船した数は38,939名です。
 北海道には、16,282名が、58の事業場に連行され、その配置総数は20,430名です。その内死亡者は3,047名で死亡率は18.7%にも達しています。これは当時の日本人の死亡率1.631%にくらべると、恐るべき数字であることが分かります。しかもこれは、わずか1年ほどの間のことですから、もし戦争が長引いていたら、連行された中国人はおそらく全滅したと思われます。

 戦後になって日本国民は侵略戦争を深く反省しました。1953年「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」(大谷瑩潤委員長)を結成し、中国人強制連行事件の調査と遺骨収集送還運動を大規模に展開しました。
 北海道でも同年6月に「北海道中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」が結成され、全道58事業場の綿密な調査と遺骨の発掘・送還が行われました。また各地に中国人殉難者の慰霊碑が建てられ、慰霊祭も行われました。

 こうした運動の一環として、日本鉱業大江鉱山の殉難者18名(船中死亡5名・大阪駅で死亡1名を含む)の慰霊碑が後志管内仁木町に建立されました。
これは日中友好協会小樽支部と北海道支部連合会が中心となり、広く道民各層の支援のもとに実現したものですが、また、当時の仁木町長高木太一氏も絶大な尽力と同町議会、同役場職員の並々ならぬ協力も忘れられないところです。

 1966年10月29日の盛大な除幕式以来、毎年盛大な慰霊祭が挙行されています。「日中不再戦友好碑」という言葉どおり、単なる慰霊ではなく、再び戦争の道に進むことのないよう決意を固めたいと思います。
皆さんのご参列を心よりお待ちしています。